2024年7月20日、平塚競技場で女子100mハードルの日本新記録が生まれた。12秒69――この数字は日本女子陸上界に新たな歴史を刻んだ。記録の主は福部真子選手、28歳。
しかし、その栄光からわずか3ヶ月後、彼女を襲ったのは「菊池病」という聞き慣れない病名だった。39度の高熱、激しい首の痛み、そして急激な筋肉量の減少。トップアスリートにとって致命的ともいえる症状との闘いが始まった。
本記事では、福部真子選手を支える家族の存在、29歳という年齢での恋愛観、そして病気との闘いから復活までの軌跡を詳細に追う。単なる成功物語ではない、一人のアスリートの生々しい現実をお伝えする。
福部真子という異才――12秒69が意味するもの
福部真子(1995年10月28日生まれ、広島県安芸郡府中町出身)は、日本建設工業株式会社所属の陸上競技選手である。彼女の名前が日本陸上史に刻まれたのは、2024年7月20日のオールスターナイト陸上(平塚競技場)でのことだった。
12秒69――この記録が持つ意味は重い。従来の日本記録を0.04秒更新したこの数字は、世界レベルで見ても遜色ない。実際、パリオリンピックでは準決勝まで進出(12秒89で5着)し、日本女子ハードル界の実力を世界に示した。
輝かしい競技歴の裏側
福部選手の才能は高校時代から際立っていた。インターハイ100mハードルでの3連覇は、日本高校陸上界でも稀有な快挙だ。2022年の日本選手権では13秒10(+0.8)で初優勝を飾り、着実にトップアスリートへの階段を上っていった。
しかし、ここで注目すべきは記録の推移だ。2022年の13秒10から2024年の12秒69へ――わずか2年で0.41秒もの大幅な記録更新を実現している。この背景には、技術的な改良だけでなく、精神的な成熟があったと考えられる。
5人家族が支えた陸上人生――福部家の絆
福部真子選手を語る上で欠かせないのが、5人家族という環境だ。両親、姉、弟という構成の中で、彼女は次女として育った。
家族構成が与えた影響
5人家族という比較的大きな家族構成は、福部選手の競技人生に少なからず影響を与えている。特に注目すべきは弟との関係性だ。SNSや取材記事から垣間見える兄弟関係は、単なる仲の良さを超えた深い絆を示している。
トップアスリートの家族が直面する現実は厳しい。遠征費、合宿費、専門的なトレーニング費用――これらの経済的負担は決して軽くない。さらに、精神的なサポートも欠かせない。勝利の喜びも敗北の悔しさも、家族が最初に受け止める存在となる。
プライバシーを守る理由
両親や兄弟の詳細な情報が公開されていないのには理由がある。日本のトップアスリートの家族は、しばしば過度な注目や取材攻勢にさらされる。福部家が情報を限定的にしているのは、家族の日常生活を守るための賢明な選択と言えるだろう。
この「距離感」は、福部選手が競技に集中できる環境を作り出している。家族が過度にメディアに露出しないことで、選手自身も余計なプレッシャーから解放される。
29歳の本音――「素直に羨ましい」が示す葛藤
2024年現在29歳の福部真子選手は未婚であり、交際相手の存在も公表されていない。しかし、彼女の発した一言が、トップアスリートの複雑な心境を如実に物語っている。
「地元の同世代の友人が家庭を持っている姿を見て、素直に羨ましい」
この言葉には、アスリートとしての誇りと、一人の女性としての願望の間で揺れる心情が込められている。
アスリートと恋愛の両立という現実
女子アスリートの恋愛・結婚のタイミングは極めてデリケートな問題だ。特に陸上短距離・ハードル種目では、体重管理、筋力維持、柔軟性の保持など、身体的コンディションが記録に直結する。
29歳という年齢は、一般的には「結婚適齢期」とされる。しかし、福部選手にとっては競技人生の重要な岐路でもある。2024年に日本記録を更新し、2025年の世界陸上代表に選出された今、競技への集中は必然的な選択だろう。
「羨ましい」の裏にある強さ
この率直な感情の吐露は、むしろ福部選手の精神的な強さを示している。多くのアスリートは、こうした個人的な感情を公にすることを避ける傾向がある。しかし、彼女はあえてその本音を語った。
これは、自分の選択に対する確固たる信念があるからこそできることだ。今は競技に全てを捧げる――その決断に迷いがないからこそ、別の人生への憧れも素直に認められるのだろう。
菊池病――アスリート生命を脅かした35日間
2024年10月15日、福部真子選手は首に違和感を覚えた。それが地獄の始まりだった。
病魔の正体:菊池病とは何か
11月19日に下された診断は「菊池病(組織球性壊死性リンパ節炎)」。この病気は1972年に日本で初めて報告された比較的稀な疾患で、主に若い女性に発症する。原因は未だ不明で、ウイルス感染や自己免疫反応が関与すると考えられている。
福部選手を襲った症状は過酷だった:
- 10月15日頃:首の激痛が始まる
- 11月初旬:39度の高熱と悪寒
- 11月19日:菊池病と診断、ステロイド治療開始
- 治療4日目:ようやく平熱に
3kg減と「自慢のお尻とハム」の喪失
「自慢のお尻とハムも皆無」――福部選手自身のこの言葉が、事態の深刻さを物語る。
ハードル競技において、臀筋(お尻)とハムストリングス(太もも裏)は最重要筋群だ。踏み切りの瞬間的な爆発力、ハードル間の加速、着地時の衝撃吸収――全てがこれらの筋肉に依存する。
体重3kgの減少も、その大部分が筋肉量の減少だったことを考えると、競技への影響は計り知れない。一般的に、トップアスリートが失った筋肉量を取り戻すには、失った期間の2〜3倍の時間が必要とされる。
「自分の体じゃないみたい」という絶望
練習再開後の福部選手の言葉は、アスリートにしか分からない苦悩を表している。長年かけて作り上げた身体感覚が、わずか1ヶ月で失われる――これは技術的な問題を超えた、アイデンティティの喪失に近い。
ハードル競技は0.01秒を競う世界だ。踏み切りのタイミング、空中姿勢、着地の角度――全てがミリ単位の精度を要求される。その感覚が狂えば、記録どころか競技自体が成立しない。
復活への道程――13秒12から12秒73へ
2025年5月18日、セイコーゴールデングランプリ。病気から約6ヶ月、福部真子選手が競技場に戻ってきた。
屈辱の7位が示した現実
結果は13秒12で7位。日本記録保持者としては屈辱的な数字だ。しかし、この記録には重要な意味がある。
菊池病の影響は、単なる体力低下にとどまらなかった。本人が明かしたところによると、この時点でも微熱が続いており、完全な回復には至っていなかった。つまり、病気と闘いながらの出場だったのだ。
13秒12という記録は、日本記録の12秒69から0.43秒も遅い。この差は、100mハードルでは約3〜4m、つまり1台分のハードルの差に相当する。トップアスリートにとって、これほどの差を突きつけられることの精神的ダメージは計り知れない。
3ヶ月での劇的回復
8月16日、福井ナイトゲームズ。福部選手は12秒73で世界陸上標準記録を突破した。
わずか3ヶ月で0.39秒の短縮――これは驚異的な回復力だ。この背景には、綿密なトレーニング計画があったはずだ:
- 段階的な筋力回復プログラム:失った筋肉を急激に取り戻そうとすれば故障リスクが高まる
- 技術的な修正:筋力低下を補うための効率的なフォームの追求
- メンタルトレーニング:「自分の体じゃない」という感覚との折り合い
世界陸上代表という証明
東京2025世界陸上代表選出は、単なる復活以上の意味を持つ。日本陸上競技連盟の選考基準は厳格で、「標準記録突破」だけでなく「メダル獲得の可能性」も考慮される。
福部選手の選出は、彼女の回復が本物であることを証明している。
なぜ公表したのか――アスリートの社会的責任
「同じ病気の人の役に立てば」
福部真子選手が菊池病の公表を決めた理由は、この一言に集約される。しかし、この決断の重さを理解するには、アスリートが病気を公表することのリスクを知る必要がある。
公表のリスクと覚悟
トップアスリートにとって、病気の公表は諸刃の剣だ:
リスク面
- スポンサー離れの可能性
- 「病気のアスリート」というレッテル
- 過度な同情や特別扱いへの懸念
- プライバシーの喪失
それでも公表した理由
- 菊池病の認知度向上への貢献
- 同病患者への希望の提供
- 正確な情報発信による偏見の払拭
菊池病患者にとっての意味
菊池病は年間発症者数が少なく、一般的な認知度は極めて低い。多くの患者は診断までに時間がかかり、周囲の理解も得にくい状況にある。
福部選手の公表は、以下の点で画期的だった:
- 具体的な症状の共有:39度の高熱、首の激痛など、実体験に基づく症状の詳細
- 治療経過の開示:ステロイド治療の効果と副作用
- 回復過程の可視化:完全復活までの道のりを時系列で提示
これらの情報は、同じ病気で苦しむ人々にとって貴重な指標となる。
東京2025世界陸上への展望――「あきらめなくてよかった」の真意
「あきらめなくてよかった」
世界陸上代表決定後の福部真子選手の言葉には、表面的な喜び以上の重みがある。
29歳での世界陸上が持つ意味
女子100mハードルの競技寿命を考えると、29歳(2025年時点で30歳)での世界陸上出場は貴重な機会だ。世界トップレベルの選手の多くは20代前半から中盤でピークを迎え、30歳を超えて第一線で活躍する選手は限られる。
福部選手にとって、東京2025は以下の意味を持つ:
- 日本記録更新の可能性:大舞台での高揚感が好記録を生む可能性
- ホームアドバンテージ:地元開催による心理的優位性
- キャリアの集大成:これが最後の世界大会になる可能性
克服すべき課題
世界陸上までの道のりは平坦ではない:
身体面の課題
- 微熱が続く中でのコンディション調整
- 失った筋肉量の完全回復
- 年齢による回復力の低下との戦い
精神面の課題
- 病気の再発への不安
- 世界トップとの実力差の認識
- 「日本記録保持者」としてのプレッシャー
期待される成果
現実的な目標設定として、以下が考えられる:
- 最低限の目標:予選通過(13秒00以内)
- 現実的な目標:準決勝進出(12秒80台)
- 理想的な目標:決勝進出(12秒60台)
日本記録の12秒69は世界レベルでも通用する記録だ。完全復活を遂げれば、決勝進出も夢ではない。
福部真子が示す「強さ」の本質
福部真子選手の物語は、単純な成功譚ではない。
日本記録保持者としての栄光、菊池病という試練、29歳での恋愛への憧憬――これらすべてが、現代を生きるアスリートの複雑な現実を映し出している。
三つの顔を持つアスリート
記録保持者として:12秒69という数字は、日本女子ハードル界の新時代を切り開いた。しかし、その記録の陰には、高校時代からの長い積み重ねと、技術の絶え間ない改良があった。
患者として:菊池病との闘いは、アスリートの脆弱性を露呈した。39度の高熱、3kgの体重減少、「自慢のお尻とハム」の喪失――これらは、どんなに鍛え上げた肉体も病気の前では無力であることを示している。
29歳の女性として:「素直に羨ましい」という言葉に込められた本音は、多くの女性アスリートが抱える葛藤を代弁している。競技と人生の選択は、常に天秤にかけられる。
「あきらめなくてよかった」が教えること
この言葉は、単なる美談では終わらない重要なメッセージを含んでいる。
菊池病の診断から世界陸上代表選出まで、わずか9ヶ月。この短期間での復活は、医学的にも稀有な例だ。しかし、それを可能にしたのは、5人家族の支え、所属企業の理解、そして何より本人の「あきらめない」という選択だった。
東京2025世界陸上は、福部真子という一人のアスリートの集大成となるだろう。しかし、その結果がどうあれ、彼女が示した「病気を公表し、闘い、復活する」という過程そのものが、すでに大きな価値を持っている。
菊池病患者にとっての希望、女性アスリートにとってのロールモデル、そして全ての人にとっての「あきらめない」ことの証明――福部真子選手の存在意義は、記録を超えたところにある。


